写真版ぐるめ部長の『ほぼ高槻』グルメガイドvol.1

画像の無断使用はご遠慮ください。ヒトサラなどに食べログから提供された画像も含みます。地元のキュレーションサイトに結構使われてしまったので、こう書かざるを得ません(^^;)

コラム 【好き嫌い と 良い悪い】





世の中、「好き嫌い」と「良い悪い」を混同しているヒトが多い。



例えば、ある種の主義主張。


その内容は個人の思想信条の自由の範疇だから、
自分はこう思う、とするだけなら、それもまた自由なんだけど。


なぜか、社会はこうあるべき⇒それこそが正しい/良い、となる。
ホントは、自分にとって社会はこうあってほしい⇒その状態が自分は“好き”、だ。


もしくは、社会はこうではいけない⇒それは正しくない/悪い、となる。
ホントは、自分にとって社会はこうあってほしくない⇒その状態が自分は“嫌い”、だ。



どうしてそんなに、「自分の好む状態」=「正義」だって、無条件で思えるんだろう。
単なる「自分」の「好き嫌い」を、「全体」の「良い悪い」に投影している。
なんて素直で単純で、そして自覚がナイぶん厄介なんだろう。


「良い悪い」は道徳の基準だ。
それを自分の「好き嫌い」でのみ判じるとしたら、
自分とは異なる「好き嫌い」を持つ他者に対して、おこがましくはないだろうか。


「好き嫌い」は個人の感情だ。
だから、論理では変えようがない、論理が通じない。
「損得」のほうがまだしも、他者と折り合いがつく、合理的にコトが運ぶ。
けれど「好き嫌い」で目が曇っていると、自分にとっての本当の「損得」が見えなくなる。
他者との共生が難しくなる。



もちろん「好き嫌い」と「良い悪い」の混同は、身近なヒト達との間でも起こる。


「相手のためを思って」の助言や忠告や指示に、相手が従わなかったとき。
まるで相手が「悪い」みたいに非難するヒト、いませんか。


たとえその助言や忠告や指示が、自分の利益が目的ではなく、
愛情による期待や心配から出たものであるとしても。
あるいは、その時代・その土地の社会通念であったとしても。


そのヒトは、頭の中にある「相手がこうあってくれたら」という、
自分の「好き」なイメージから乖離するような行動を、相手がするのが「嫌い」だ。
その「嫌い」な状況は自分を不安にする、その不安に耐える精神のチカラがない。


その「好き」なイメージは、あくまで自分のイメージであって、
相手がそのイメージに反したとしても、単に好みが違っただけのこと。
「好き嫌い」の問題であって、決して「良い悪い」の問題じゃない。
非難するような筋合いのことではない、とは理解できない。


自分が「良い」で相手が「悪い」と確信してるから、違いを許せない。
許せずに相手を断罪することに、少しの躊躇もない、正義は我にあり、だ。


こういうタイプのヒトと家族だと、かなりシンドイ。



また、もっと卑近な例を挙げると。


私自身がときどきやってしまうコト。
食事に行ったお店が、自分の好みじゃなかった場合。
まるで、そのお店が「悪い」みたいに書いてしまう。


「(私にとっては)もっと濃い味つけにしてほしい」ではなく、
「(一般的に考えて)もっと濃い味付けにするべきだ」みたいに。
薄味の好きなお客さんもいるはずだから、それが「悪い」って訳じゃないのにね。



「~ほしい」と「~べきだ」の混同。
「好き嫌い」と「良い悪い」の切り離しは、とても難しい。


でもせめて、自分はこの2つの観点を混同しているかもしれない、
という自覚だけは、忘れないようにしたい。


と同時に、もっともらしいコトを言う他者の主張は鵜呑みにせず、
このヒトはもしかして自分の好き嫌いで語っていないか、と、
そのもっともらしさを疑ってみる視点も、持とうと思う。






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