コラム 【受容体】
近頃の映画を観て思うコト。
私には重度の知的障害がある兄がいて、
また、結婚後は身体の不自由な家族がいる。
そのせいか、『アナと雪の女王』には思い入れタップリ。
昔、「バリアフリー」なんて言葉が無かった頃は、兄と一緒にいると、
ジロジロ見られたり、心無い言葉を投げつけられたり、は当たり前。
今でも、当時のコトを思い出すと、涙が出てくる。
周囲のヒトと違うコトの辛さ。
違うコトを隠す自分の罪悪感。
周囲の目を慮ってしまう親の心の弱さ。
これらは、経験しないと分からないんだな、と、
『アナと雪の女王』を揶揄する文化人の発言を聞くと、
そのハンディキャップの無さが、うらやましい。
この物語を「受け取るシナプス」=受容体が、私にはアリ、彼らにはナイ。
ただし、私の持つ受容体は、私の成育歴に因るモノ。
映画の製作者の意図とは、違う受け取り方をしているかも、だけど。
また、『くちづけ』という映画では。
障がいのある兄のために結婚を諦めた妹が登場。
知り合いの、障がいのある子供のお母さんは、
それを「美談」としてとらえていた。
「なんて優しい妹さんなんでしょう」みたいに。
「やっぱり、きょうだいはいなくちゃね」と。
イヤイヤイヤ、親ならソコは、
「きょうだいのコトは気にするな」
「オマエはオマエの人生を歩め」と言ってあげなくちゃ。
べつに、障がい児のきょうだいだからって、必ずしも、
障がいに理解のあるヒトを好きになるとは、限らない。
「きょうだいのコトを受け入れてくれるヒトしか好きにならない」
こんなきょうだいの言葉は、自然な本心からの場合もあるだろうけど。
イロイロと諦めた結果の、血を吐くような一言であったりもする。
ココの受け止め方で、この映画に感じる奥行きはずいぶん違うと思う。
彼女と私、「親」と「きょうだい」ですら、作られる受容体は異なってる。
受容体は、非常に個人的なモノだ。
私と、私の息子の受容体もそう。
私は、もひとつピンと来なかった『かぐや姫の物語』と『風立ちぬ』。
息子は、とても良かったと言っていた。
私は、まぁまぁかなと思った『思い出のマーニー』は、
息子は、グッと来るモノがあったらしく、泣いていた。
息子にはアル受容体が、私にはナイ。
で、近頃の映画について。
全部が全部じゃないけど。
大勢のヒトが受容体を持っているであろうようなテーマではなく、
受容体を持ってるヒトが少ないかもしれないテーマを、扱う作品が増えたような。
そして、持ってないヒトにも共感してもらえるよう、作り込むのではなくて、
分からないなら分からないでイイと、自己完結している作品もあるような。
それが、必ずしも、マイナーな映画とは限らなくて。
ジブリのようなメジャーな映画が、そうだったりして。
ネームバリューもあるし、テーマに対する共感性とは別に、
エンターテイメント性があれば、ヒットはするだろうけど。
「心に響く」というのとは、また違うんじゃないかな。
なんて思ったりする、この頃。
まぁ、映画のせいだけじゃナイんだけど。
みんなの状況に共通項が減っちゃって。
受容体の違いも大きくなった、て、コトかもしれない。
ちなみに、私が勝手に考えてる「受容体」というのは。
感性とか共感能力とかではなくて。
感性や共感能力には「磨く・養う」「あるほうが良い」という
「価値」が伴いがちだけど、そういう「価値」とは切り離して。
ただ単に、自己と外部とのフィードバックを通して形作られた、何か。
一つの総括的な能力や特性じゃなくて、細分化され特化された、何か。
脳の中に、いっぱいウジャウジャいるカンジw
神経細胞のシナプスとか、生物学でいうレセプター(受容体)に近いイメージ。
人気ブログランキングに参加しています、クリックして頂けると嬉しいです♪♪